ファンディの日々雑感。

日々の生活の中で感じたことを諸々書き綴っています!!

映画「あちらにいる鬼」、そして「寂聴97歳の遺言」を読む。

 先日、映画が見たくなり映画配信サイトをあれこれ見ていたら、Amazonプライムでなんとなく興味をそそられる映画があった。『あちらにいる鬼』というタイトル。寺島しのぶ豊川悦司広末涼子らが出演者として名前が載っている。キャスティングから制作側の気合いの入れ方が伝わってくる。ただ、まったく聞いたこともない知らない映画。映画の紹介文を読むと、なにやら複雑な男女の相愛を描いた内容のようである。とりあえず見た。

 いわゆる不倫ものである。寺島しのぶが演じる「長内みはる」と豊川悦司の演じる「白木篤郎」、そしてその妻の関係性が、通常であればドロドロしたものになりそうなのだが、ここに描かれている3者の関係はサラサラしたもので憎悪的なものがほぼほぼない。そういう意味では不思議さを感じさせながら話は展開していった。ところが終盤、主人公の長内みはるが、その相手白木に対し、尼になることを突然告げたのである。

(この時の髪を剃り落とす女優寺島の役者魂は実に見事だと感服した)

 この時、「あれっ? これ瀬戸内寂聴のこと」と、ふと思った。映画を止め、スマホで映画名をググる。そこには『作家・井上荒野が自身の父である作家の井上光晴と母、そして瀬戸内寂聴をモデルに男女3人の特別な関係をつづった同名小説を、寺島しのぶ豊川悦司の主演で映画化』とあるではないか。

 となると見え方も見た印象もぐっと変わってくる。「瀬戸内寂聴」という名前は知っているがどんな方かはほとんど知らない。「出家した人」「尼さん」というほどの認識。そして、その姿からは「高貴な博学高い女性」という印象を抱いていたように思う。映画で表現されていたのは、もちろん全人格の中のほんの一面ではあるが、ここで描かれた「女性としての生き方」は、大きな驚きだった。

 

 後日、蔦屋書店に行き書棚をあれこれ見ていたら、『寂聴、97歳の遺言』のタイトルの本が目に入った。帯には、『みなさんも昨日と違う今日をきっと見つけられるはず。この本が私の「遺言」です』とある。映画を見た直後だったので、「遺言」としてどんなことを書いているのだろうと、興味津々で即購入。そして一気に読んだ。

5章立てで構成されている。

第1章 生きることは愛すること、愛することは許すこと

第2章 「ひとり」は淋しいか

第3章 「変わる」から生きられる

第4章 今この時を切に生きる

第5章 死ぬ喜び

 

 ハッとさせられる言葉が随所に散らばっている。根底に流れているのは「愛」。

「誰も愛さないで死んでいく人は、本当に可哀そうだと思います。結婚するとかしないとか、それは全く関係ない。誰かひとりでも愛する人にめぐりあう。それが一番、私たちが生きたという証しになるでしょう。」
「人間は愛することを死ぬまでやめられない。それは肉体の衰えとは全く関係なくて、むしろ年齢を重ねるほど強く恋慕することもあると、心得ておきましょう。」
「人間は誰かを愛するために生まれてきたのです。誰も愛さないで死んでいくことは、せっかく生きてきたのに惜しいことだと思います。」
「愛したらいろんな苦しみが伴います。けれどもその苦しみを味わわないと、人間の真の優しさとか想像力とか、本来的に人間に備わっている素晴らしい力が表に出てこないのではないでしょうか。」
「百冊の本を読むよりも一度の真剣な恋愛の方が、はるかに人間の心を、人生を豊かにします。」

 

 ここに書いたのは、「第1章 生きることは愛すること、愛することは許すこと」の中で書かれてある言葉。

 映画の中で描かれている人生を歩んだであろう寂聴さんの言葉がずっしりと響いてくる。

 この寂聴さん、2021年11月9日、心不全で入院中の病院にてお亡くなりになられた。享年100(満99歳)。