ファンディの日々雑感。

日々の生活の中で感じたことを諸々書き綴っています!!

完読、吉本隆明著『老いの超え方』 圧巻の読み応え!!

   最近、本を読む時間が激減していることを痛感している。本よりもスマホに手が伸び、そして動画鑑賞。一つ動画を見てしまうと、関連動画が次々現れ、ますます深みに入ってしまう。以前は、年間40冊、週あたり1冊というのが目標であり、自分なりのペースだった。読み終えた後は、手帳に書籍名とワンフレーズ感想、そして◎○△で自分なりの評価も書き残していた。週末や寝る前のひとときが読書タイムだった。カバンの中やベッド脇にはいつも読みかけの本が入っていた。速読などできないので、読み終えるのに結構時間もかかった。

 今も、基本的に本は好きだし、読みかけの本は直ぐに手の届くところに置いている。しかし、とにかく1冊の本を読み終えるまでにかなりの時間と日数を要するようになってしまっている。動画を見る時間を減らし、本を読めば良いだけのことなのだが‥‥。

 1月21日のブログで書いた吉本隆明著『老いの超え方』をようやく読み終えた。

 裏表紙には、『誰にも訪れる、年齢による病と身体の衰えをどう超えるのか? 戦後最大の思想家が、自らの心身のおいを徹底分析。身体・社会・思想。死をテーマに「超人間」たる老人について語り尽くした、画期的な吉本老体論!』とある。

 かなり読み応えがあった。難解な部分も多く、全てが理解できたなどとは到底言えず、文字を読んだに過ぎない部分も多かったというのが事実である。が、これから先いずれは訪れるであろう「老人」と呼ばれる頃の、「身体」「社会」「思想」「死」のそれぞれの章で語っている一つ一つはとても深さと奥行きがあり、興味深くページをめくった。その中でも特に凄さを感じたのが、「思想」「死」について書いた章。

 「思想」の章は、更に「宗教」「文学」「政治」についてそれぞれ氏の考えが述べられている。その中で最も興味深かったのが、「文学」の中で表現されている「老い」について、『性』に焦点を当て語っている部分だった。「老い」と「性」。個別的でありながらも普遍的なものでもあるように思うこのことについて、そこに書いてあることは大変興味深いものだった。

 そして、最後が「死」について。この章は、私にとっては、この本最大のクライマックスでもあった。人間にとって死は「宿命」であり、避けることのできないものである。しかし、生きている間は、このことを意識することは多くの場合ほとんどない。しかし、老いが進むにつれて、「切り離せないこと」として最後のこの章が始まっていく。『死の捉え方』でハッとさせられ、『死への近づき方』では、なるほどそういうことなのかと考えさせられる。その上で、次に『対処』として、どう向き合っていくのかを説いている。

 ここに至る各章で、全方位的に「老い」について自らの考えを述べつつ、「老い」の先にあるであろう「死」についても、まさに全方位的観点から述べ切っている。前後の内容は省略するが、『死ぬ覚悟がある』と『死への概念がない』ことからくる行動選択の違いについて述べている部分があるが、ここなどはまさに圧巻であり、鳥肌がたつような思いだった。

 

 介護する立場となり、「老い」と向き合い、このことに正面から向き合いたいと思い、書棚からこの本を取り出し読み進めた。一度は読んだはずだが、殆ど記憶に残っていない本だったが、自らも年齢を重ね、そして介護する立場が、この本に自らを溶け込ませていったように思う。

 今、この本を読み返すことができたことを嬉しく思っている。

 この本の最後に書かれている文章を書く。

『僕は中世の宗教家の親鸞というのはいちばん偉い、特に精神について語った場合に一番偉いと思っています、彼はなんと言っているかというと、生死は不定である、ということだけ言っている。つまり、死をこうだと決めてしまうのはいけないということです。

 誰がいつ、どういう病気で、どういう死に方をするかは一切わからないし、はたからわかるはずはないし、ご本人もわかるわけはない。だから、そういうことについて言うのは無駄であると親鸞は言っています。』

 

これをもって、この本は終わっている。見事なオチである。